rikon_kowaiの日記

今まさに夫から離婚を迫られている妻のブログです。

田舎を出る 最終章

昼に夫に暴言を言われた後、田舎から実家に荷物を送るために集荷所に荷物を持って行った。

本当は、夫が持って行ってくれるはずだったが、昼に出て行って帰ってこなかったため、義母にお願いをして運んでもらった。

 

その後、夫の上司の家に行き、明日、田舎を出ることを告げた。

全然気づかず、申し訳ないと言われたが、私ももっと早く相談していれば変わったのかな・・とも少し後悔した。

が、当時の夫のことを考えると、誰の言葉も届かなかっただろうな・・とも思った。

 

家に戻る途中に隣に住む、夫のいとこに会った。

伝えなきゃとずっと気になっていた相手なので、会えてよかった。

「無責任なヤツでごめんね」とそのいとこは言った。

私も正直、その通りだと思ったが、選んだ私にも責任がある。

 

そして、その後、まさかの大どんでん返しがまだ待っており、本当に疲れ果てることになる・・

 

 

夕方に義母に、明日、出発前におうちにご挨拶に伺う旨をLINEで伝えたところ、突然、「生活費は請求するな、でなければ、裁判をする」と言われた。

今まで散々、お金はしっかり請求した方がいいと言ってくれていた義母からの言葉は寝耳に水であった。

向こうは知り合いの弁護士と相談したらしく、私の過去を調べるだとか、詐欺罪で訴えるだとか言ってきた。

何を言われても、夫との間には別居の協議書も離婚の協議書も交わしていたので、後に引く必要はなかった。

それにしても疲れ果てており、夫にも義母からのLINEを見せ、後の対応はもう夫にお願いすることにした。

 

最後の晩餐は、本当に疲れ果ててしまい、夫と缶ビールを飲みながら、味付け海苔を食べつつ、ボーっとYoutubeを見て過ごした。

裁判をするくらいなら、離婚カウンセリングの方が私はいいと思うと伝えた。

夫はもう気持ちが戻らないから意味がないんじゃない?と言ったが、なぜこんな結果になってしまったのか、結果分析をすることで前に向く時間が早められるのかなと私は思っただけ、忘れて。と伝えた。

 

 

出発の日の朝、最後にホウレンソウとえのきの味噌汁と地物のトマトを食べた。

「最後の味噌汁くらい、ちゃんと出汁を引くべきだったね。。」と話しつつ、一緒に朝ご飯を食べた。

最後にソファでお互い向き合い、私から手を差し出し、握手をして別れた。

 

その後は眺めのいい場所に行ったり、最後に友達とビーチに行ったりした。

 

12時30分頃に夫が帰りのチケットを渡しに家に帰って来た。

すぐに家から出るかと思ったが、水を飲んだり、トイレに行ったりしつつ、

「最後、何かある?」と聞かれたが、本当に何もなかったので、「何もないよ」と言った。

本当はこの田舎での別れの挨拶である、ハグをしたい気もしたが、シャワーの後でノーブラだったし、なんとなく、辞めておくことにした。

何となく、涙目で名残惜しそうな夫がそこにはいた。(気がする)

 

「じゃまた」と夫は言って、別れた。

 

その後、義母の家にお世話になったと挨拶に向かい、その足で田舎を後にした。

最後に仕事をしている夫を見ながら、田舎を去った。

私の姿を見つけた夫の上司が、私のことを指さしたが、夫は私を見なかった(ような気がする)

見送りは断っていたが、たまたま会った人たちとも別れを交わし、最後まで泣いてしまった。

 

長い時間を掛けて大阪にやっと戻って来た。

 

このブログをこの後も続けるかは正直分からない。

別居という最悪の結果になってしまったこと、どこで何を間違えてしまったのか、それも今はよく分からない。。

田舎を出る その3

翌日一生口効きたくないと言われたのがあまりに理解できず、訳を聞いた。

 

「被害者ヅラしてんなぁと思って」

 

「今、どんな気持ちなの?」

 

他の女の子を好きになられたと田舎で言いふらした件を怒っているようだ。

だったら、離婚の理由は他に何があったのか。

結局夫は何も言ってくれなかった。

 

何も未練を残さずに、この田舎を去れそうだ。

田舎を出る その2

5月12日:

田舎を出る準備を始めていた。

夫の幼馴染にも少し話をしたが、今の夫では私は幸せになれないから、別れた方がいいと言われた。

私も頭の中では整理がついていたので、その通りだと言った。

東京で出会った、私が好きだった夫はここにはもういないように感じた。

 

午後、夫が生活費について話しはじめた。

ここでもレコーダーを撮っておけば良かったが、できていなかった。。

 

・慰謝料300万しか払う気はない

・すぐに離婚して欲しい

 

と夫は言った。

いろいろ調べたが、300万が妥当だと言った。

私には何一つ飲める条件ではないことを伝えたが、だったら裁判しかないと夫は言った。

 

 

その夜、夫の尊敬する地元の先輩が「ちょっと出かけよう」と誘ってくれた。

その先輩も、奥さんの実家であるこの田舎に来て、とても苦労をしており、私とも心境が似ていた。

田舎に来たばっかりの頃から、本当にお世話になり過ぎる程、お世話になった。

夫のこれからが心配なので、そのことを沢山話した。

夫のことを見守ってくれる人が居てくれて、安心したし、その先輩とはこれからも連絡を取れるよう、連絡先を交換もできた。

この日も夫は帰ってこなかった。(車で寝たのだと思う)

 

5月13日

生活費を払ってくれないのであれば、夫の両親に相談すると私は言った。

夫の両親は離婚していたが、それぞれ田舎で住んでいる。

夫はもちろん「嫌だ、迷惑を掛けたくない、それなら裁判だ」と言った。

離婚届も2年先じゃないと無理だと私は伝えた。

なぜ、夫が夫の好きな相手に告白するために私が慰謝料や生活費を妥協しなければいけないのか、意味が分からないということも伝えた。

生活費も結局払うしかなさそうだが、別件でお店を始めようとしていた融資が下りるまで待って欲しいと言われた。

1000万も離婚に払うのかと言われたが、この時点では夫はまだすぐに離婚して彼女に想いを伝えようとしていたのだと思う。

 

その日はリモートの仕事があったが、夫とは一緒にいたくないため、義母の家で仕事をさせてもらった。

お昼を義母に作ってもらい、一緒に食べた。

 

田舎を出る前に身ぎれいにしようと、まつエクに行った。

施術をしてくれるのは夫の同級生なので、夫の今回の経緯を全て包み隠さず話した。

(こんな田舎街だから、ウワサは流れる。腹黒い気持ちもあった。)

 

家に帰ると夫がいた。

私の条件を全部飲むと言ってくれた。

幼馴染が説得してくれたようだ。

結婚の責任や夫としての責任について。

拍子抜けする気持ちだったが、もっと泥沼化すると思っていたので安心した。

が、夫はまだ好きな彼女への配慮からか、誰に今回の件を話したのか、しきりに聞き、彼女には迷惑を掛けたくないと言った。

迷惑掛かっているのはこっちだし、正直、その彼女も妻のある男の人と頻繁に連絡をとるのは常識的ではないと言っておいた。

また、彼女のせいで私はこの島を出るのは事実なので、事実は伝えて出ていくとも言った。

 

5月14日

朝、夫に昨日は言いすぎたと謝った。

彼女のことは他の人にはもう言わないとも伝えたら、夫は「俺、〇〇ちゃんと付き合うつもりはないから。2年間は恋愛できないし」と言った。

やっと少し、落ち着いてきてくれたとも思った。

 

午前中にバイト先に即日退職したいことをお願いし、夫の父親にも話に行った。

夫の父親は、「コロナウィルスにでも罹ったんだと思って、1度大阪でゆっくりして」と言いながら、支度金?をくれた。

私は必死に断ったが、結局手渡された。

 

夫に、今夜は一緒にご飯を食べる?と躊躇いながら言われたが、私は最初、気を使ってくれなくていいよと断った。

が、確かに最後なので食べることにした。

 

午前中は引っ越しの準備をし、午後は田舎でまだ行ったことのない場所があったので夫の車を借りて1人で出かけた。

コロナウィルス中なので人が誰もいなく、田舎に来て初めて大声で泣いた。

ここは隣も近所も知り合いばかりで大声で泣くこともできない。。

 

夜、夫がテイクアウトの料理を買ってきてくれた。

夫の心を奪われた〇〇ちゃんのいるお店のテイクアウトだ。

鈍感というか、デリカシーがないところも改めてさすが夫だと思ったが、私はもう未練はなかったので普通に食べた。

お酒飲む?と聞かれ、水でいいと言ったが、結局ビール2本ずつと白ワイン1本を空けた。

その夜は9月27日以来、8か月ぶりに、テレビもつけずに色んな話をした。

今までのこと、これからの人生のこと、この8か月の間のこと。

 

義父から頂いた支度金も返し、ご祝儀も100万円も頂いていたので、それも返そうと話した。

 

夫はこれからは家族の時間を大切に、父や母の時間を大切にする。

仕事を一生懸命すると話してくれた。

昔の夫が戻って来たようで、私は嬉しくなってしまった。

 

私も老婆心ながら、、と、夫の今の性格のことと、将来、夫が義父の仕事を継いだ時に土下座をしてでもその仕事を守り家族を守る男になって欲しいということを伝えた。

夫は、今はよく分からないけど覚えておくと言ってくれた。

 

5月15日

夫に朝ご飯を食べるか?と聞くと、久しぶりに食べると言い、約5日ぶりに夫のためにご飯を作った。

作る最中から、なぜか涙が止まらなくなり、朝ご飯も上手く食べられなかった。

夫はそれをしきりに大丈夫か?と言ってくれ、そんなに優しい夫も8か月ぶりだったので、もっと泣いてしまった。

涙の理由は分かっていた。

未練が、出てしまったのだ。

未練なんて1つも残してはいけないと、自分にずっと言い聞かせて、冷静になろうと心掛けていた。

でも、昨晩、昔のような夫と話し、本当にどうしていいのか分からなくなった。

それでも、義母の両親のお墓に行きお供えをし、義父側の実家にもお別れの挨拶に行った。

田舎はサングラスを掛けるのが普通の場所で、コロナでマスクもしていたので、泣き顔を他人に見られずに済む。

それだけが救いだった。

 

お昼ご飯も夫に作り、一緒に食べた。

その後、荷造りをしようとしたが、どうしても進まなかった。

そう、帰りたくないと思ってしまったのだ。

 

その夜は義母の家で私の送別会をやってくれた。

夫の養母のような存在の方にも挨拶をできていなかったためだ。

早めに義母の家に行き、義母のお兄さん(夫の叔父さん)にも島を離れる挨拶をした。

涙を止めることができなかった。

 

その後、義母や養母、友人と義母の家で、お酒を飲んだ。

このことが良かったのか、悪かったのか、、義母が夫を呼び出したのだ。

3日前の夫であれば、この呼び出しに来ることはなかったと思う。

けど、夫は車ですぐに来た。

夫が来ると、養母は泣いて、泣いて、泣いて、顔を上げてくれなかった。

私も何も言えなかった。。

 

義母も泣いて、もう、親子の縁を切りたいと言った。

 

養母が最後に、あなたはここ(この田舎)で何がしたいの?と聞いていたが、夫はそれには答えなかった。

 

夫が養母や友人を送ってくれることになり、私は自転車で帰ろうとしたが、義母に車に乗れと言われて、確かに、自転車はもういいかと思い、車に乗った。

 

友人や養母を送った後、2人きりになった車内で「やっぱりお酒はダウナー系だから良くないね」と明るく言ったら「黙って、話したくない、一生口聞きたくない」と言われたしまった。

 

正直、この期に及んで私にこの状況の責任を押し付けるのかとガッカリした。

養母に今日、話すことも分かっていたはずなので、先に夫から話しておくこともできたはずだ。

でも、もう、私は夫に話すことを辞めた。

このまま未練を断ち切って、私はこの田舎を出ていきたいから。

田舎を出る その1

備忘のために、時系列に書いてみようと思う。

前回の日記以降も、毎日夫は不機嫌に口数少なく、ただ、淡々と日々を暮らしていた。

100年に1度のコロナウィルスという謎の敵が現れ、夫は夜のバイトがなくなり、一緒に友人たちと食事をしたりと、夫と一緒に過ごす時間は増えていた。

 

5月1日:結婚記念日

義母が祝ってくれるという誘いに夫が了解をし、親しい友人と1周年を祝った。

義母の友人2人から、ご祝儀を差し出された時、夫の気持ちが分からないため、私は受け取って良いのか分からず、躊躇した。

その後、車を置いて義母の家に入って来た夫は、そのご祝儀を受け取った。

私は、決して前向きではないが、夫が結婚生活を継続する努力をしてくれているのだと少し安心した。

 

5月8日:

ご祝儀を頂いた2人に内祝いを選ぼうと、私が夫に話しかけると、夫も同意した。

「ビールならクラフトビールがいいんじゃない?」という夫の提案で、私が2つの選択肢に絞り、夫が最後に「こっち」と選んだ。

(もう片方は私の実家の市町村のクラフトビールだったが、そちらは選ばなかった)

 

5月9日就寝前:

「コロナが収まったら、やっぱり離婚をしたい」と突然告げられた。

2月以降、2人の今後について初めて夫から話をされた。

結婚式をしたかった、子どもが欲しいなど、妻である私に面と向かって言われ、本当にもうダメなのだなと。。。

私は突然すぎて何も言えない・・・と伝えた。

また、夫に「〇〇ちゃんのことが好きだよね?」と聞くと、「うん」と答えた。

その日の夜から、夫は私と別の布団で寝だした。

私は一睡もできなかった。

 

5月10日(母の日):

全く眠れないまま朝を迎え、実家の母に電話をした。

母も、もう、帰っておいで、もう決心しな、と私に話した。

 

朝から義母に準備していた、母の日のプレゼントを渡しに義母の家に行った。

昨晩、夫から話された内容を義母に伝え、もう、本当にどうしようもないと思う。。。と告げた。

義母は、「私からも話す」と言っていたが、正直、夫に義母の言葉は届かないと私は思っていた。

夕方に頂いたご祝儀は1人で返しに行った。

相手も夫に原因があるなら、夫から返しに来るべきだと怒っていたが、何とか受け取ってくれた。

 

その日の夜、夫は友人とイベントの打ち上げに出かけた。

〇〇ちゃんもいる打ち上げだ。

私は行けるわけもなく、前日、眠れていない疲れもあり、18時くらいには寝てしまった。

夫には、こちらの家には帰ってきて欲しくないので、実家に帰って欲しい、今後について、話す準備ができたら、こちらに来て欲しいと伝えた。

夫は、打ち上げの最中に「分かった、明日帰るね」と告げたが、結局実家には帰らず、車で寝たようだ。

 

5月11日:

午前中に夫が帰って来たので、今後について話し合うのかと思ったが、着替えてすぐにどこかに行ってしまったので、さすがに怒った私は夫に電話をし、話し合いのために帰って来たのではないか?と言った。

が、お昼に帰ると夫は言った。

(夫の性格上、14時か15時くらいになるんだろうなと予測していたら、その通りで呆れた。)

 

夫への気持ちは頭では整理がつき、取れるもの(お金)は全部取ろうという気持ちになっていた。

話し合いはこっそりレコーダーで録音をした。

言った、言わないで、後で揉めることが目に見えたいたからだ。

 

 

・生活費とその期間

・慰謝料

・離婚のタイミング

 

夫は、慰謝料のみで、生活費は払えないと言ってきた。

離婚自体はそんなに急いでしなくてもいいと言っていた。

(好きな子がいるのに??と思ったけど、そこは敢えて黙っていた)

私は1つも譲るつもりはなかった。

月の生活費もその期間も、慰謝料も、離婚のタイミングもだ。

慰謝料の額によって、離婚のタイミングは決めたいと伝えていた。

300万なら2年後

400万なら1年後

すぐに離婚したいなら500万

 

夫は2年後の額を提示してきた。

 

夫が今の女性への想いや、性格を直そうという気概もないことが良く分かったので、正直、私も諦める気持ちになった。

 

話し合いを終えて、録音をした後、その額なら離婚は2年後になるよ?と言ったら、分かったと彼は言った。(が、そこを録音していなかったのは至極失敗だった)

 

生活費について1日考えたいと言われた。

 

その日の夜はもう1人の人にもお祝儀を返した。

泣きに、泣いたが、田舎を出る決心はついていた。

 

その2に続く

書くことを止めていた理由

田舎に戻って3週間が経った。

結局、夫からは「もう気持ちは戻らないけれど、すぐには離婚しなくていいと思っている」という謎の言葉を言われた。

私はもう離婚するのか、しないのか、ではなく、「納得をしたい」と伝えた。

納得するための話し合いをしたいと伝えていたが、東京に居る間に話す約束は破られ、結局田舎に帰る前日に私は夫の東京の実家には帰れなくなり、漫画喫茶に泊まった。

 

明け方近くに夫からLINEが入り、そこから実家に戻って泣きながら話した。

話し合う前にずっと持っていた別居協議書を出したが、夫は拒否をした。

そして、「(急にそういった書類を出すのは)ズルくない?」と言われた。

話し合いを避けてノラリクラリと田舎に帰ろうとする方がズルくないのか?と私が言ったところ、その点については夫は謝った。

でも、別居協議書は期間が書いてない等と文句を言って拒否をした。

 

田舎に戻るのであれば、前向きな気持ちで(ちゃんと話し合うことを前提に)帰りたいということ。

田舎に戻って、またイライラをぶつけたり、無視をしたりしないで欲しいということ。

それだけは約束して欲しいと言い、それは「分かった」と言った。

 

田舎に帰ってきて、もうすぐ3週間。

この離婚したい話が入籍後5か月で言われ、そして、その後、5か月が過ぎた。

この次のステップにどう進むのかは正直分からないけど、私から別の道を提示したり、話し合うのは止めることにした。

 

夫が前向きに話し合うという言葉があったので田舎に帰ってきたのだ。

今度は夫から話すのを待つことにする。

話さないのであれば、このまま。

それで今はいいと思う。今のところは。

これからのことの整理

実家に戻って1か月。
色んな気持ちを整理してみた。

夫のイライラは①イヤイヤ期②反抗期③更年期の3点セットなのではないかと思う。
何に対しても全力を出せていない夫に、私はサポートをする気持ちをなくしているんだと思う。

夫が田舎で何を頑張るのか、それを聞けるまでは田舎へは帰れない。

今のダサすぎる夫とは一緒に生きていけない。。

分かって欲しい。

ちゃんと話したい。夫に気持ちが伝わるよう、私自身も気持ちを整理したい。

2020年元旦

年が明け、何か書こうと思うが、、心が宙ぶらりんすぎて何も感情が生まれない。。

 

正直、心から笑えることが今のところない。

 

年末に嫌なことがありすぎてまだ立ち直れない。

ここに書くべきな気もするけど、、それは今度にしようと思う。。

 

人生って何なんだろうと思い、、悩む、、2020年新年。